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「日本画 麻田辨自」
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日本画 麻田辨自

麻田辨自

 麻田辨自(あさだべんじ)は1900年(明治33年)に京都府南丹市(旧・亀岡市)に生まれた日本画家で、実名は「辨次」と書いていましたが、晩年になって「辨自」と改めたのには自らの画風を老いてもなお完成せんとする決意の現れであったでしょうか。
 その作風は若くして独自の境地に達していた画家であり、京都の美術工芸学校在学中に描いた「栗と樫鳥」を見ると、大画面を埋め尽くす無数の栗の葉を安易に様式化することなく一枚一枚の特徴を際立たせながら表現しています。その構図は伝統的な写生画とは全く異なり地上から高い栗の木を見上げたときの構図になっていて、すでに若くしてその独自性の高さを現しています。この彼独特の画風は卒業制作でも見られ、あまりの独自性にあきれた教授に「当たり前に描け」と叱られましたがそれを拒否し、それが元で留年の憂き目を見たほどでありました。
 彼の画の独自性を現す代表的な作品に「唐崎之松」があります。これは歌川広重の「近江八景之内 唐崎夜雨」と全く同じ松を描いたものでありますが、なんと松を黒一色で描ききっており、見る者の目を驚かせるのです。歌川広重のそれが地面から見た松の構図になっているのに対し、麻田辨自のそれは上空から見下ろした構図になっているのがまた独特であります。遠くに小さく見える近江富士と手前に青く広がる広大な湖面を背景に、黒々と描かれた松の木は全く不思議な重量感を持って、見る者に迫って来て深い感動を与えてきます。
 「辨自」と改名し決意を新たにした晩年の作品に「野火」があります。暗い夜の平原の向こうに野火が広がって来ていて、眼前に佇むつがいの雉を描いたものですが、まるでやがては火に呑まれてしまうかもしれない2羽の生命の危うさを表現しているようです。それは迫り来る自身の死への恐れと、それを見据えてなお生きようとする晩年の彼自身を表しているようで見る者に深い悲しみと祈りの心を伝えて来るようでもあります。麻田辨自は84歳で逝去しましたが、ガンと戦いながらも最後まで筆を休めることはありませんでした。

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